苛めはいつ頃から?
私の勝手な判断ですが、それは多分人間が一ヶ所に定住し組織的に協力し合って行動し始めた弥生時代頃からではないかと思います。獲物を求めて移動していた頃迄は組織として動く必要はなかったが、稲作をして一ヶ所に定住する様になればその集団の規律等も決める必要がある。又、その集団を率いるリーダーが必要になる、そこでリーダーになりたい人は他人を自分の思う様に動かしたい、自分に服従させたい等欲求を満足させる為の方法を考える。しかし、要求に従わない者も出てくる。それに対して脅したり皆の前で悪口を言ったり、欠点を指摘したりする。これは子供の場合でも当てはまり、自分に従わせる為に皆の前で苛めたり欠点を言いふらしたり、又自分の不満をその様な方法で解消させる、その延長線上にあるのが苛めの起源ではないか、全く自分勝手な独断ではありますが、その様に思っております。
一. 苛められる原因小児麻痺、私の症状。
私は二歳の時ポリオウイルスに感染し、小児麻痺を患いました。一週間近く熱が下がらず、平熱に戻った後暫くたって麻痺と思われる症状が出始めたそうです。年数が経過するにつれて現われたその症状は、左足が腰から足首迄麻痺し筋肉はなく骨の周りにわずかな脂肪がつき、その外側に皮膚があるといった状態で細く、又足首は健常者の人達ほど曲らず、走れないのは勿論重い荷物も持てず、左足に負担のかかる事は全んど出来ない。物を蹴る力も弱いのでチョッとした小石や段差等にもすぐ躓き転んでしまいます。長さも右に比べて三p程短かく、歩く時は足を引き摺った様にしてびっこを引きながらです。又、長さが短いのと足首が曲がらない為、左足が最初に地面に着く所は踵ではなく親指の付け根の所です。だから踵は皮が薄く、反対に親指の付け根の所は厚くなって時折ナイフで皮を削らなければなりません。とに角走れない事が悔しくてなりません。
二. 私が受けた苛め。
足が悪い為小学校に入学する一年程前頃から小学五年位迄の期間友達や上級生、たまには女の子からもよく苛められました。或日、友達五〜六人が集まってしゃがんでメンコをやって遊んでいた時突然後ろから足で蹴られ危うく地面に顔を擦りつけそうになりました。私にメンコで負けた友達が「クソ、チンバに負けた、他の人に負けたのなら諦めるがチンバに負けたのが悔しい!」と言って私を蹴ったのです。いつも私は全んど名前では呼ばれず、「チンバ」と言われて返事をしていました。小学校では下校する時私の左足首の所に細い棒を、雨の時は傘の柄を差し込まれます。私はそれを蹴る力が弱く躓いてすぐ倒れる、その姿が面白いのか皆でどっと大笑いです。たまに女の子がソッと近づいて来て、何くわぬ顔でそれをやり、倒れるのを面白がっています。私が起き上って掴まえようとしてもすぐ走って逃げるし、私は走れないので掴まえる事は出来ません。だから皆と一緒に下校するのは嫌で、いつも集団の一番後ろから目立たない様に少し離れて歩いていました。他にも荷物を持たされたり買い物に行かされたり色々あって、中にはよくこんな意地悪を考えつくなあ、と思う様なあらゆる苛めを受けた記憶があります。
三. 自殺決意の前段階。
それぞれの区切りを明確な線引きする事は出来ませんが、私が自殺しようと決意する迄の記憶を今考えると大凡三つ位に区切る事が出来ます。
第一段階は、色々な人から苛められる事に反発し苛める人達に対してやめる様親しい友達に説得を依頼したり、先生に自分の受けている苛めを伝えたり心の中では嫌だと思っていても苛められるのを防ぐ為、よく苛める人に仲よくなる為近付いたり、おべんちゃらを言ったり、なるべく同じ行動をとったり、又反対になるべく近付かない様にしたり、とにかく苛めを受けない為の自分なりの工夫や考え、対応を実施している段階。
第二段階は、第一段階で色々自分なりに努力し対応等やっても効果がなく、苛めだけは依然として続き、絶望感等も混ざり合って自分では気付いていないものの「うつの症状」が徐々に心の中に浸透している状態で口数も少なくなり苛めを受けなくする為の積極的な言動はせず、静かに毎日を過している段階。
第三段階は、自分の殻に閉じ籠もり、自分の様な人間は居ない方が良い、自分さえいなくなれば苛める者もいなくなる、自分が生きているから苛める奴もいつ迄も続ける、居なくなればスッキリする。自分の様な障害者は居ない方が一番良い、生きている方が悪いんだ、等と自分の存在を否定する事ばかりを考え、この段階ではあれ程苛める奴を憎んでいた気持もそう憎く感じない様になって、もうそんな事はどうでも良いという投げやりの気持と考え方の幅が狭くなって只々この世に於ける自己の存在を否定するのみ、気分は八方塞がりの様になって、命を断つ事が最良だという考えが頭の中を支配している。第二段階あたりで生じた「うつの症状」も依然として続いている段階。
私は、前述した様に各段階毎の明確な区切りはないものの以上の様な段階を経て、結局は自殺した方が良い、という考えに至り自分で自分の命を絶つ事に決めました。
四. 自殺未遂。
苛めは続くし、私自身この左足の障害は絶対治らず、一生このハンディを背負っていかなければならない、楽しみも希望もないので、小学五年生の六月頃自殺しようと決心しました。馬小屋から丈夫な紐を持って来て、天井に横たわっている太い梁にかけ、椅子を持ち出してそれに乗り首に紐を廻しました。
以前何かで読んだ記憶で、人間の首の両側には動脈という太い血管が通っている、そこを押さえて血が頭にいくのをストップさせると、しばらくしたら意識がなくなり死んでしまう場合があるので友達同志でふざけて首を絞めるなどの遊びをしてはいけません、とあったのを思い出し、首の左右にある動脈の所に紐が当る様にしっかりかけ、後は今乗っている椅子を蹴ってぶら下がれば良い、という所で田圃から帰って来た母に見つかってしまいました。あと四〜五分後に母が帰宅すれば自分はこの世に居ないのに、とその時は残念な気持と放心した状態になったのを憶えています。母からはこっぴどく叱られ「お前が死んでも誰も喜ぶ者はいない」と言われた事が今でも耳に残っています。
そういう事で間一髪、私の自殺は失敗に終り、不思議な事にそれ以降はもう自殺しようとは思わなくなりました。
五. 苛められる原因。
その原因としては、どれ一つとして全く同じというものはなく、苛められる人が百人いればその原因も百種類あると思います。私の様な身障者、又は体に異常のある人(例えば禿など)、言語障害、話す仕草や言動が他人と変った癖、表情をする人、知的障害のある人、組織に馴染めない人、本人に欠点はなくても身内に異常のある人等々数えあげたら切りがなく、しかもそれらは各々が似ている様な内容であっても皆違い、どれ一つみても同じというものは無い様に思います。
六. 委員会の設置。
イ. 人選について。
小・中学校等で苛めが発覚した場合、その原因を追求し苛めを起こさせない為又はなくす為の、先生方や専門の知識をもった方々で選出された委員会が設置されますが、私はそのメンバーに嘗て苛めを受けた人、苛めた経験のある人も是非加わるべきだと思っています。理由は、苛められた人でなければその残酷な実態は把握が困難だし、又実際に苛めた人でなければその時の心理状態は分りません。そういう経験のない、只机の上での知識だけの人が集まってその実態を把握し、分析と対処法を考えても、所詮それは真の実態とはかけ離れた綺麗事ばかりを並べた理想論で終ると思うからです。折角集まって検討し結論を出しても実効性に欠け、絵に描いた餅では真の解決法は導き出せないのではないでしょうか、前述した様に苛めの実態はさまざまで、どれ一つ同じというものはなく、従って委員会の人選にも可能な限り経験のある人をなるべく多くメンバーに加え、深く掘り下げる事が重要であると思います。
ロ. 委員会の性格と任務。
それぞれのいじめに対処する為に組織された委員会であるという事は、即ちそれを原因毎に把握して対応する事を使命としており、当然それに有効な解決法を追求する事が目的なので、的確に捉え解決まで導びく事が要求されます。従って総論的な事ばかりを並べた中味では意味がないし、その解決策を実施するのは他の組織や機関に任せます、では中途半端です。又同時に一過性のものであってもいけないと思います。
委員会では、まず苛められているその原因及び種類、形態を総て洗い出し似通ったものをグルーピングする、次にそのグループ毎に区分した実態に応じ対応策を考えるべきではないでしょうか。又現在学校等で苛めが明るみになった場合、委員会を泥縄的に設置しておりますが、そういう方法ではなく、国又は地方自治体が率先して全体を包括的に捉え各々の場合に対処する、恒久性のある委員会を各グループ毎に組織するべきだと思います。又、現在の委員会はプロジェクトチーム、即ち思考集団としての働きしかしておりませんので、それ以降の対応策が確実に実施されたのか不明確です。それをなくす為、当該委員会がその対応策も実践して、その効果を具現し証明する、即ち実際に作業をする任務も兼ねる、いわゆるタスクフォース的な実働集団としての役割も併せて負う様にするべきではないでしょうか。
七. 自殺を思い留まらせる指導。
以前に比べて最近では苛めの根絶に向けて、教育委員会等により真剣な取り組みが伺え、大きく前進しております。しかし、かつて苛めを受けた私が感じる事は、苛められて自殺した人が、自殺する前の段階で苦悩している自分の心境を伝えた手記なり、発言なりが非常に少ないという事です。その方の遺族や学校等により当人がいかに苦痛を感じ悩み苦しみ到頭耐えきれずに死を選んだという事実が伝えられる場合が多く、いづれも本人が亡くなった後でしか伝えられていません。その人が命を絶つ前に、どういう心境でいるのか、どういう苦痛に耐えているのかを伝える手段が必要だし、周囲の人の励ましが不可欠だと思います。亡くなった後では取り返しがつきません。その人が生きている時にその事を知り自殺を思い留まらせなければ意味がありません。非常に個人的で他の場合にも当て嵌まるか分りませんが私の経験から述べますと、自殺しようと決断する直前は周囲の事が見えず、只自分さえ居なくなればいいんだ、等自分の存在を否定する非常に内向き、又うつ的状態で多角的方面から物事を考える心理になっておりません。そういう状態になる前、当人が絶望してしまう前に、生きている時に話を聞いて自殺を思い止まらせなければ意味がありません。
自殺する以外に道はない、と考え方の視野が非常に狭くなっている者に、ではどう対応するか、の方法としては、一つはその者の趣味や希望を十分に聞いて把握し、生きていればこんな事も出来る、この様な事もやれる、好きな道を追求する事も出来る等、とにかく本人の考え方をもっと幅広くさせる事と、ではもう少し生きてみるか、という考え方を前向きに変える様指導する事、これはあまり面識のない人が行うより、親友、両親や身内の人等、常日頃本人が信頼している人の方が良い様に思います。二つ目は、その人が亡くなったら嘆き悲しむ者が両親を始め多くいる、又苛めに負けないで生きていく事を強く望んでいる人が多数いる、だからそういう人を悲しませたり落胆させない様にしなさい、と命の尊厳を言い聞かせるのも効果的だと思います。
従って学校での指導、教育は勿論国や地方自治体の方針として、常に講演会開催等、マスコミを利用する事も含めて指導していく事も非常に重要でしょう。又、最近では職場でのパワハラという名の苛めも多発しておりますので、企業や労働組合、地方自治体でも職場研修等によりその根絶の為の研修、指導を充実させて欲しいと思います。
以上、乱筆乱文ながら私の経験を踏まえた苛め自殺防止に関する考え、意見を述べさせていただきました。
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